2006年12月23日
BEFSR41C-JP V3
せっかく光ファイバーにしたので、新しいブロードバンドルータがほしくなりました。
うちの2階にある「情報盤(有線LAN、テレビアンテナ、電話線のターミナルが収納されている)」のスペースが少ないので、サイズの大きなルータは物理的に入りません。
そこで選んだのがLinksys社のこの製品。サイズが小さくて(113mm(W) x 88(D)mm x 30(H)mm)、スループット(実測値)が100Mbpsというのに惹かれました。ツクモ電気で買うと5500円でまあまあの値段でした。
これは有線ルータなので単体では無線LANが使えなくなります。そこで今まで使っていた無線ルータ(PLANEX BLW-04G)をアクセスポイントとして使うことにしました。
前出(光ファイバー開通)のGyaOスピードテストで計測すると前のルータで25Mbps(有線LAN経由のデスクトップ)だった数値が40Mbpsに大幅アップ。
残念ながら無線LANを通してのノートパソコンでの計測ではアップはありませんでした(4Mbps)。
これで一応、並のスピードを確保できました。この買い物に満足しました。
2006年12月21日
月のブログパーツ
このブログには寂しいことにブログにつきもののブログパーツがありません。
そこでいろいろなブログパーツのサイトを探しまわることにしました。
以前から月には神秘的なものを感じていたため、月のブログパーツを張ることに。
候補として考えたのは写真の3つのパーツ(スクリーンショットを撮ったとき、ちょうど新月だったので月がわかりにくい写真になっている)です。
moon clock(http://blog-apart.com/MOON/index.html)
Moon Script(http://www.moonsystem.to/flash/moon.html)
Current Phase(http://www.calculatorcat.com/moon_phases/daily_moon_phases.phtml)
このブログには動くものがまったくなかったので、人が地球上を歩く一番上のmoon clockを貼り付けることにしました。
これで少しブログらしくなったでしょうか。
2006年12月16日
サイト内検索フォーム(msearch)
今までこのブログには検索フォームがなかったので設置することにしました。
このteeter totterの優待版にはオリジナルのプラグインがあるのですが、一部の検索語がページにヒットしないという問題があってうまく検索ができません。そこでmsearchという全文検索のためのCGIスクリプトを使うことにしました。
1.まずはスクリプトをマニュアルどおりにインストールする。msearchのダウンロード、解凍、サーバへアップロード、パーミッションの変更。
2.一部のスクリプトと設定ファイルの変更。
3.インストールができたところで正常に検索ができることを確認。
4.このブログに検索フォームを設置。
5.検索結果が重複するので、一部のhtmlファイルをインデックスから除外するように設定。またサイドバーをインデックスから除外するためにのタグをteetor totterのスキンに埋め込む。
6.msearchのスキンを自分のブログの書式に合うように一部改変する。
7.インデックスを更新するbashスクリプトを編集して、サーバのcronに設定(一日に一回更新)。
これで自動的にインデックスが更新されます。
一日でこれだけの作業をやってかなり疲れました。
このteeter totterの優待版にはオリジナルのプラグインがあるのですが、一部の検索語がページにヒットしないという問題があってうまく検索ができません。そこでmsearchという全文検索のためのCGIスクリプトを使うことにしました。
1.まずはスクリプトをマニュアルどおりにインストールする。msearchのダウンロード、解凍、サーバへアップロード、パーミッションの変更。
2.一部のスクリプトと設定ファイルの変更。
3.インストールができたところで正常に検索ができることを確認。
4.このブログに検索フォームを設置。
5.検索結果が重複するので、一部のhtmlファイルをインデックスから除外するように設定。またサイドバーをインデックスから除外するためにのタグをteetor totterのスキンに埋め込む。
6.msearchのスキンを自分のブログの書式に合うように一部改変する。
7.インデックスを更新するbashスクリプトを編集して、サーバのcronに設定(一日に一回更新)。
これで自動的にインデックスが更新されます。
一日でこれだけの作業をやってかなり疲れました。
2006年12月9日
2006年11月25日
W43CA
前の携帯電話(A5507CA)を約2年使ったので、W43CAに機種変更を行いました。それにともなって料金プランもCDMA1XからWINに変更しました。
前の携帯カメラよりも若干画質がアップ。明るいところに限られるが、割合きれいな写真がとれるようになりました。
液晶が大きくなり、WEBブラウザ等アプリの動きが機敏になったこともよい点。
地下鉄からCメールを送るとき、通じる範囲が広がったことを実感しました。
せっかくおサイフ携帯にしたのにJR東海の改札では携帯電話を使うことはできません。これではおサイフ携帯の意味がないというものです。
リスモが使えるようになりました。音楽プレイヤーとして使うことも可能ですが、もっとも普及しているMP3が使えないのでそれに取って代われるものでもないようです。
旧携帯より大きさが5~6mmアップしました。キーの間隔がわずかに開いたことに思わぬメリットがありました。不器用な私にはキーが打ちやすくなったことがうれしいのです。
液晶が大きくなり、WEBブラウザ等アプリの動きが機敏になったこともよい点。
地下鉄からCメールを送るとき、通じる範囲が広がったことを実感しました。
せっかくおサイフ携帯にしたのにJR東海の改札では携帯電話を使うことはできません。これではおサイフ携帯の意味がないというものです。
リスモが使えるようになりました。音楽プレイヤーとして使うことも可能ですが、もっとも普及しているMP3が使えないのでそれに取って代われるものでもないようです。
旧携帯より大きさが5~6mmアップしました。キーの間隔がわずかに開いたことに思わぬメリットがありました。不器用な私にはキーが打ちやすくなったことがうれしいのです。
2006年11月14日
ThinkPad 535
一番好きなマシンは?と聞かれたら、迷わずにIBMのThinkPad 535と答えるでしょう。
このマシンには「大人の翼」というかっこいい(?)キャッチフレーズがつけられていました。私はあまり見たことはありませんが、人気モデルを使ったCMも流れていたと思います。
ボディは黒一色で当時、人気のあったThinkPadシリーズのスタイルを継承していました。サイズはB5で持ち運びにも適していました。
WIN95上でWORDとEXCELと動かせるだけのパワーがありました。趣味ではなく、本当に仕事に使えるマシンはこれが初めてです。
キーボード中央にトラックポイントというポインティングデバイスがついていました。最初は少し使いづらいのですが、慣れるとマウスやタッチパネルよりも快適にポインターを動かせました。また運ぶときにあわせてマウスをもつ手間が省けました。
当時の価格で本体だけで20万円ぐらいしたと思います。こんなに値段の高いマシンを購入したのは後にも先にもこれ1回。
その高価なマシンも今年、老朽化のため手放してしまいました。
2006年11月6日
光ファイバー開通
長く続いたCATVのインターネット接続の時代は終わりを告げ、うちにも光ファイバーがやってきました。
申込みは確か3月だったので開通までに約8ヵ月かかりました。長い間待たされた後の開通でしたが、期待するほどのスピードは出ませんでした。GyaOスピードテストで約25Mbpsという結果なので、理論値の約4分の1といったところ。まあCATVより若干速くなったのでメリットがあったといえばあったのですが。
これを改善するためにはソフトウェアや設定だけ難しいのです。ネットワークを含めて個々のハードウェアのアップグレード(投資)が必要と思うので、今のところはそのままにしてあります。
申込みは確か3月だったので開通までに約8ヵ月かかりました。長い間待たされた後の開通でしたが、期待するほどのスピードは出ませんでした。GyaOスピードテストで約25Mbpsという結果なので、理論値の約4分の1といったところ。まあCATVより若干速くなったのでメリットがあったといえばあったのですが。
これを改善するためにはソフトウェアや設定だけ難しいのです。ネットワークを含めて個々のハードウェアのアップグレード(投資)が必要と思うので、今のところはそのままにしてあります。
2006年10月11日
Vz Editor
1993年ぐらいにはVz Editorが流行っていました。
そのエディタはキー割り当てやメニューが自由にカスタマイズできました。
マクロ機能を利用したテトリス・ゲームで遊べました。
役に立ちそうな好みのマクロを選んで、それを特定のキーに割り当てる定義ファイルを作成。
たった一つしかないオレ流のエディタができたと当時はよろこんだものでした。
しかし時は流れ、パソコンのOSはDosからWindowsに変わっていきました。
Windowsで動作する秀丸を使うようになってからは、Vz Editorはほとんど使わなくなりました。
後からWZエディタというVzエディタのWINDOWS版が出たが、Vzとはマクロの仕様が変わっていました。
時間をかけて作った定義ファイルはお蔵入りに。
「特別な用途でない限り、ソフトはカスタマイズせずにデフォルトで使ったほうがいい」という教訓を得ました。
2006年10月5日
FMV-450NL/S
初めてのノートパソコンは富士通のFMV-450NL/S。
このマシンはWINDOWS3.1で動いていました。
そのころパソコンは一人一台ではなかったので、ノートパソコンを会社にもっていくことで、書類を作る効率がアップしました。
WINDOWSを使い始めたので、あっさりMS-WORDに乗り換えました。周りの人たちが使っていた一太郎はばっさりと切り捨てました。
OSにトランプ・ゲームの「ソリティア」がついていて、それでよく遊びました。
持ち運びができるというノートの利点がうれしくて、しばらくデスクトップは買いませんでした。
このパソコンは今も義弟がつかっているとか。
このマシンはWINDOWS3.1で動いていました。
そのころパソコンは一人一台ではなかったので、ノートパソコンを会社にもっていくことで、書類を作る効率がアップしました。
WINDOWSを使い始めたので、あっさりMS-WORDに乗り換えました。周りの人たちが使っていた一太郎はばっさりと切り捨てました。
OSにトランプ・ゲームの「ソリティア」がついていて、それでよく遊びました。
持ち運びができるというノートの利点がうれしくて、しばらくデスクトップは買いませんでした。
このパソコンは今も義弟がつかっているとか。
2006年10月4日
Windows3.1
Window3.1が発売されたのは1993年。
その頃は今と違って、Microsoftの新OSに大きな関心を寄せていました。
発売されてすぐにマウスつきのパッケージを買って自分のマシンにインストールしました。
私にとってはマルチメディアを本格的に楽しめる初めてのOSでした。
当時の自機、IBMのPS/VのISAバスにサウンドカードを挿して、WAVEファイルを再生して遊びました。
パソコンで写真(ビデオ)や音楽を楽しむこと。今ではごく当たり前のことがそのころは新鮮でした。
2006年9月21日
IBM PS/V
1993年ごろ、日本ではPC9801が圧倒的シェアを誇っていましたが、DOS/V陣営がそれを切り崩しにかかっていました。
私は将来DOS/Vマシンが主流になると予測していましたので、PC9800には見切りをつけ、IBMのDOS/VマシンであるPS/Vに乗り換えました。当時は本家IBMが、DOS/Vマシンを世に出したということでかなり話題になりました。
このマシンは、Intelの486SX20Mhzを積んでいました。Windows3.1で使うのには若干非力だったように記憶しています。また何メガかは忘れましたが、内蔵ハードディスクを搭載していました。
DOS/Vは最初対応ソフトが少なかったので(98が圧倒的なシェアを占めていたのでしかたがない)一時は不自由を感じて98に戻そうと思ったぐらいでした。でも少しずつソフトが増え、ゲーム以外はたいてい揃うようになってきました。さらにDOS/Vでは画面の解像度や色深度、また表示フォントが自由に変えられるのが大きなメリットでした。
またWindows上では98でもDOS/Vでも同じソフトが動くので次第にその差は吸収されていきました。
そしてWindows 98ではPC9800シリーズ対応のものはリリースされず、98の時代は終わりを告げました。
私は将来DOS/Vマシンが主流になると予測していましたので、PC9800には見切りをつけ、IBMのDOS/VマシンであるPS/Vに乗り換えました。当時は本家IBMが、DOS/Vマシンを世に出したということでかなり話題になりました。
このマシンは、Intelの486SX20Mhzを積んでいました。Windows3.1で使うのには若干非力だったように記憶しています。また何メガかは忘れましたが、内蔵ハードディスクを搭載していました。
DOS/Vは最初対応ソフトが少なかったので(98が圧倒的なシェアを占めていたのでしかたがない)一時は不自由を感じて98に戻そうと思ったぐらいでした。でも少しずつソフトが増え、ゲーム以外はたいてい揃うようになってきました。さらにDOS/Vでは画面の解像度や色深度、また表示フォントが自由に変えられるのが大きなメリットでした。
またWindows上では98でもDOS/Vでも同じソフトが動くので次第にその差は吸収されていきました。
そしてWindows 98ではPC9800シリーズ対応のものはリリースされず、98の時代は終わりを告げました。
2006年9月14日
PC9801U
先のPC8001は大学生のときにアルバイトをして買ったのですが、PC9801Uは会社に勤めてから給料で購入しました。
そのころは毎週のように上前津まで行っていたと思います。そのときはまだ独身だったので、経済的に余裕があって財をパソコンに投入していました。
このマシンを買ったころはまだハードディスクは普及していませんでした。3.5inchフロッピーが2基付いていて、それが外部記憶装置のすべてでした。
OSとワープロ、表計算、データベースなどがそれぞれ1、2枚のフロッピーに収まっていました。起動時にフロッピーを入れておくことでアプリケーションを立ち上げることができました。
本体に漢字ROMが搭載されていて、アプリケーションで簡単に日本語(漢字)が手軽に使えたのが画期的でした。
WINDOWSなどのGUIには大きな容量のハードディスクが必要だったので、それはもっと後の時代になります。
このマシンは主にキャラクターベースで動いていました。
私がNECの純正マシンを使ったのはPC8001とPC9801のみ。後は国民機98の互換機であるEPSONのPC286とPC386を使っていました。
そのころは毎週のように上前津まで行っていたと思います。そのときはまだ独身だったので、経済的に余裕があって財をパソコンに投入していました。
このマシンを買ったころはまだハードディスクは普及していませんでした。3.5inchフロッピーが2基付いていて、それが外部記憶装置のすべてでした。
OSとワープロ、表計算、データベースなどがそれぞれ1、2枚のフロッピーに収まっていました。起動時にフロッピーを入れておくことでアプリケーションを立ち上げることができました。
本体に漢字ROMが搭載されていて、アプリケーションで簡単に日本語(漢字)が手軽に使えたのが画期的でした。
WINDOWSなどのGUIには大きな容量のハードディスクが必要だったので、それはもっと後の時代になります。
このマシンは主にキャラクターベースで動いていました。
私がNECの純正マシンを使ったのはPC8001とPC9801のみ。後は国民機98の互換機であるEPSONのPC286とPC386を使っていました。
2006年9月7日
PC8001
1980年代、大学生のときバイトをしてPC8001を買いました。
その値段は本体のみで16万8千円。白黒(オレンジと黒)のモニターが3万円ぐらいだったと思います。
Z80の互換CPU搭載。32Kbytesのメインメモリ。BEEP音(ブザー)で音楽をPLAYしました。
雑誌に載っていたゲームのマシン語リストを徹夜で打ち込んで、それをカセットにセーブしました。
マージャン、フリートコマンダー、スタートレック、ゴルフシュミレーション、潜水艦ゲーム。遅いマシンですがそれでも楽しめました。
N-BASICを勉強。配列を使った統計プログラムを作って、大学のクラスメイトに感謝されました。
当時買って読んでいた雑誌ASCIIがリニューアルされるとのことです。PC8001で遊んだことも随分前のことになりました。
2006年8月23日
プール
ダイエット目的の水泳でK市の市民プールに行ってきました。ここ2~3ヶ月で2~3回通っています。
今は夏休みの真っ盛り。たくさんの子どもたちが泳ぎにきています。
不注意というよりも必然的に足や手がぶつかって、しばしば泳ぎが中断されます。
楽しそうな子どもたちの歓声の中、来てはいけなかったのではないかという思いにかられます。
その中でひたすら、スピードの鈍い泳ぎに専念します。
「これもダイエットのため。」とは思うものの選んだ日が悪かったようです。
1時から2時までは芋を洗うような状態。
3時からは空いてきて、また普通に泳げるようになりました。
あと少しで夏休みも終わってしまう。
2006年8月14日
2006年8月13日
昔、遊んだ滑り台
お盆で帰省したときのこと。
今は亡き祖母の家の近くに小さな児童公園がありました。
もう40年ほど前になるのですが、私にはその公園で遊んだ記憶があります。
遠い記憶をたどると、自転車できた紙芝居屋が「黄金バット」を演じていたのを思い出します。
懐かしさを感じつつ、その公園に立ち寄ってみますと、昔遊んだ滑り台がひっそりと残っていました。
セミの声がうるさく聞こえるなか、一組の親子がいました。女の子が登るのを母親が助けていました。
親子に不審に思われてはと思って、立ち去ってからこの写真を撮影しました。
昔見たのとちがって今は随分と小さく見える滑り台。
この滑り台はいつまでここにあるのでしょうか。
もう40年ほど前になるのですが、私にはその公園で遊んだ記憶があります。
遠い記憶をたどると、自転車できた紙芝居屋が「黄金バット」を演じていたのを思い出します。
懐かしさを感じつつ、その公園に立ち寄ってみますと、昔遊んだ滑り台がひっそりと残っていました。
セミの声がうるさく聞こえるなか、一組の親子がいました。女の子が登るのを母親が助けていました。
親子に不審に思われてはと思って、立ち去ってからこの写真を撮影しました。
昔見たのとちがって今は随分と小さく見える滑り台。
この滑り台はいつまでここにあるのでしょうか。
2006年8月10日
2006年8月6日
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